【要約】マイケル・サンデル著『これからの「正義」の話をしよう』|正義とは何か?3つのアプローチから考える一冊

自分の家族が凶悪な犯罪に手を染めていた場合、通報するべきか、それとも目をつむるべきか。

第二次大戦中の非人道的的行為に対して、現代世代はその責任を負う義務があるのか。

人口妊娠中絶や同性婚は認められるべきか。

どう判断するのが正義なのだろうか。

マイケル・サンデルの著書『これからの「正義」の話をしよう』は、正義をどう判断するべきなのかのヒントを与えてくれる本だ。

注意してほしいのは、本書は決して「これが正義である」といったビジネス書がしてくれるような、明快な解答を提示しているわけではないということ。本書は思想書なので、「このように考えたら社会が良くなるのでは」という考え方のヒントを提示しているにすぎない。明快な解答がほしいが方は別の本をおすすめする。

それでは『これからの「正義」の話をしよう』の要約を紹介する。

正義に対する3つのアプローチ

正義とは何か? 本書では正義に対する3つのアプローチが提示されている。

  1. 社会の幸福度が最大化することが正義である(功利主義)
  2. 自由な選択を尊重することが正義である(リベラリズムやリバタリアン的な正義)
  3. 正義には美徳の意識を養うことと共通の善の価値観を判断することが含まれる

著者であるマイケル・サンデルは、3つ目の正義の在り方を支持している。3つ目は「正義は〇〇である」という断定できないものなので、理解が難しいが、一方で正義とは「〇〇である」と、1つの尺度で断定すべきではないともいえる。

まずは、先にあげた3つの正義の考え方に簡単に解説する。

1、社会の効用の最大化を目指する選択こそ正義である

まず言及されるのは「社会の幸福度を最大化する選択こそ正義である」という考え方だ。別の言葉でいうと最大多数の最大幸福を実現することともいえる。また本書では「功利主義」として紹介されている。

たとえば同性婚の是非について、同性婚を認めると社会全体の幸福度が増大するのであれば同性婚を認めるのが正義となる。一方で認めないほうが社会全体の幸福度が増大するなら、同性婚は認めないのが正義となる。

功利主義的な正義な判断は、一見正しいように思えるし「その選択によって社会全体の幸福度が増加するか?」という単純明快な指標で正義を判断できるので便利でもある。

たとえば転売ヤーの是非について、転売ヤーの存在によって、多くの人が不幸になっているのであれば、転売ヤーの存在は社会全体の幸福度を下げている。ならば転売ヤーの存在は不正義であり法で規制されるべきだと判断できる。非常に単純であり明快だ。

しかし、シンプルだからこそ危険な思想でもある。

たとえば福山雅治(芸能人)と見知らぬ他人が川で溺れており、時間的にどちらか1人しか助けられないとする。どちらを助けるべきだろうか。福山雅治が溺死すると、そのニュースはまたたくまに拡散され、社会全体が暗くなる。最近も芸能人が亡くなる悲劇が続いたが、そのときの状況を考えるとわかりやすい。人気芸能人の悲劇は、社会の幸福度を下げる。

一方で見知らぬ他人が溺死しても報道されることはない。心無い言い方をすれば、落ち込むのはせいぜい身内と友人だけだ。

功利主義的に判断するならば、つまりどちらの選択が社会の幸福度に貢献するのかという基準で考えるならば、福山雅治を助けるのが正解であり正義となってしまう。

それでも異論はないという人がいるかもしれないが、この考え方は、人の命に優劣をつけることになる。つまり、ある人は生きる価値があって、ある人には生きる価値がないと判断してしまうことになる。

これは優勢思想につながる考え方であり、近代社会が構築してきた「人はみな生まれながらにして平等である」という基本的人権の考え方と反する。

「社会全体の幸福度が増加するか」という指標による正義の判断は重大な欠陥が存在しており、危険な考え方だ。もちろん本書では功利主義的な正義の判断を否定される。

2、自由な選択を尊重することが正義である(自由主義的正義)

続いては「自由な選択を尊重することが正義である」という考え方について。

たとえば転売ヤー(転売によって利ざやを稼ぐ人たち)の存在について、それが法律に反しないのであれば、転売で稼ぐかどうかは個人の選択の自由であり、それは尊重されるべきだ、というものだ。

同性婚、人工妊娠中絶なども人に迷惑をかけないのであれば、個人の自由だ。政府もそれを極力規制すべきではない。政府は道徳観に口出しすべきではない。これは自由至上主義、もしくは「リバタリアニズム」と呼ばれる。

他方で、社会は人種や性別など、自身の努力では変えられない要件があり、それらの要件は選択の自由を阻害するものだから、是正されるべきだ、というのも自由主義的な正義判断の1つである。

たとえば、就職試験を性別や国籍、人種で差別することは、個人の職業選択の自由を阻害する。これは是正されるのが正義だ。

また貧困家庭に生まれた場合と裕福な家庭に生まれた場合とで、受けられる教育の質が変わることで、人生の選択肢の幅が変わってしまう場合がある。これは個人の選択の自由度に差がでてしまう。ゆえに国が介入し、この自由度の差を是正することが正義である。

このように、人種、性別、貧困な家庭に生まれるか裕福な家庭に生まれるかといった、本人の努力ではどうにもできない事実によって、人生の選択肢が狭まってしまうのは自由な社会とはいえない。

こういった本人の努力ではどうにもできない構造的な違いは国が介入することで是正すべきである、というのも自由主義的な正義の考え方だ。今日「リベラリズム」と呼ばれる思想である。

リバタリアニズムとリベラリズム。これらの「条件を平等にし、その上で個人の選択の自由を尊重するのが正義である」という考え方はわかりやすいし、受け入れやすいものだ。誰と結婚しようが、どんな仕事に就こうが、どんな趣味を持とうが、それが法律の反しない限りは本人の自由であるというのも魅力的だ。

一方で、この自由主義的考え方も完璧ではない。

個人の選択の自由をどこまで尊重する場合、同性婚だけでなく、一夫多妻や一妻多夫なども認められるべきとなってしまう。また人工妊娠中絶については胎児の選択の自由が尊重されていないという点で議論の余地が生まれる。親の選択の自由が認められるなら、自分の意志で動く胎児の選択の自由の考慮すべきではないだろうか。

就職において性別や国籍を判断材料にしないことで労働者側の自由は確保される。一方で、企業側の採用の自由は阻害されてしまう。

選択の自由を尊重するのであれば、安楽死も認められるべきとなるが、だれもがいつも冷静であるとは限らない。一瞬の気の迷いによって安楽死を選択してしまう可能性だって否定できない。

このように個人の選択の自由に正義を置くと、道徳的ではない行為が認められるようになってしまったり、自分の自由と他人の自由がぶつかりあったりしてしまうことがある。

そういった意味では自由主義には欠陥も存在し、著者のマイケル・サンデルは、自由主義を退ける。

3、正義には美徳の意識を養うことと共通の善の価値観を判断することが含まれる

正義とはなにか。公正な社会とはなんだろうか。著者であるサンデルが支持する正義は以下の通りだ。

公正な社会は、ただ効用を最大化したり選択の自由を保証したりするだけでは、達成できない。公正な社会を達成するためには、善良な生活の意味をわれわれがともに考え、避けられない不一致を受け入れられる公共の文化をつくりださなくてはいけない。

(中略)

正義は、ものごとを分配する正しい方法にかかわるだけではない。ものごとを評価する正しい方法にもかかわるのだ。

物事によって正義の基準は違う。人工妊娠中絶の問題と同性婚の問題では正義の基準が異なる。

同じ転売ヤーでも、コロナ禍のマスクの転売と、平常時のプラモデルの転売とでは、その正義の判断基準がまったくことなる。

1つ1つの問題において、道徳的な判断を吟味しなければいけない。各問題について「善良な生活とは何か?」「道徳とは何か?」「どんな選択が道徳的であるか?」といったことをわれわれが議論し、その都度決めていかなければいけない。

それは時間がかかるし面倒だ。必ず利害の対立が生じる。「避けられない不一致」は必ず起こる。それでもお互い向き合い、善良な社会のあり方を議論していく。そして、不一致に関しても受け入れることができる社会をめざす。その先に、公正な社会が実現できるのではなないかとサンデルは主張している。

正義とは?

サンデルが判断する正義は、1つの尺度で考えるられるものではないし、考えるべきではない。正義を判断するにはまず「その問題において何が善となるか?」を考えなければいけない。異なる問題に対して、利害が対立する者同士が集い、議論し合わなければいけない。そういった過程を経て、共通の善のあり方を考える。それこそが正義である。

これがマイケル・サンデルの主張だろう。

コミュニケーションにより道徳を涵養する

分断が進む昨今、功利主義や自由主義は分断をさらに広げる考え方である。それではいけないとサンデルは主張する。エリート層も貧困層もともに歩み寄り、お互いの利害を議論し、何が善かを議論するべきだと主張している。

要するにコミュニケーションが大切ということだろう。怠け者のことなど知らん、エリート野郎のことなど知らんと断絶するのではなく、歩み寄り、お互いの利害をすり合わせるべきだと。

これはマイケル・サンデルだけではなく、日本の哲学者や社会学者も述べていることでもある。そういった意味ではサンデルの主張は支持できる。

たとえば哲学者の東浩紀は『ゲンロン0 観光客の哲学』のなかで、分断された社会の新しいコミュニケーションの手段として「観光」を提案している。これは文字通りの観光も意味するが、抽象的な意味での観光でもあるのだが、とにかく観光のような、商業主義によって人々が好き勝手に移動することで新たなコミュニケーションが生まれると主張してている。またこの新たなコミュニケーションが構築されることを「誤配」という言葉で定義している。こういった主張がでるのは、やはりコミュニケーションの重要性を認識しているからだろう。

また社会学者の宮台真司は、『社会という荒野を生きる。』のなかで、忖度ばかりしていないでコミュニケーションをとれといった趣旨のことを主張している。

やはりコミュニケーションが必要なのだろう。コミュニケーションが必要だと多くの学者が主張するということは、現代はコミュニケーションが圧倒的に足りていないのだ。

これからわれわれが意識すべきことは、分断を広げないように、どのようにコミュニケーションの回路を考えるかということなのだろう。いろいろなバックグラウンドの人をいかに思いやれるようになるか。それが大切だ。